水田の誕生、弥生水田

 水田開発は、国土形成の歴史上、大きな第一歩であった。近年、本州最北端の青森県に至るまで全国各地で多数の水田跡が発見され、縄文後期以来、矢板や杭で補強された畦畔や水路で区画され、井堰や水量調節用の棚を備えた取・排水口をもつなど、現代にまで受けつがれる基本的な形をもった水田が営まれていたことがわかってきた。
 弥生期から古墳期にかけての水田には、まず登呂遺跡(静岡県)にみられるような低地で大区画のものがある。そのなかには、大区画の内部をさらに細かく区画したものもある。次に微高地の縁辺から低湿地にかけてのゆるい傾斜面を利用したものがあり、大小の区画が入りまじってみられる。また起伏の少ない土地に広範囲にわたって碁盤目状に小区画を施したものもある。この代表的なものとして、群馬県で出土した畳1枚か2枚ほどの微小区画の水田は、スマトラ島の扇状地に分布するルパックという小区画水田と似ている。これらは、時代とともにある形から別の形へと発展的に変化するものではなく、水田がつくられる場所の微地形や土壌によって細かく制約を受け、多様な形をとる。区画は水をためるための仕切りであり、高低差のあるところでは小さく、平坦なところでは大きくなるのが一般的な傾向である。

弥生水田の立地と形態
谷口などの微低地にまず定着した水田は、低地では大きな、微高地では小さな区画を持つ。


 水田の立地は、まず、海岸砂丘や自然堤防の背後にできた低湿地からはじまったと考えられるが、その後、低湿地の縁辺をとりまく自然堤防などの微高地、さらには河岸段丘などの低い台地にまで、水を得る工夫とともに、そう長い時間をかけずに拡大した。しかし、水の掛け引きや田面の耕耘、溝の手直しなど日常的な作業だけが安閑となされていたわけではない。水の得やすい場所は、同時に、河川の突発的な洪水によって水田が冠水したり埋没したりといった被害にさらされやすい。一か所の遺跡において、異なった形の水田遺構が、時代を隔てた上下の地層に重なって現れることがしばしばあるのは、そうした埋没の跡を示している。このころの水田景観をながめれば、小規模な集団が占居した小さな盆地や小河川流域の小平野では、水田はその地の全体に広がって小さくまとまった小世界を形づくっていたことであろう。一方、大きな盆地や大河川流域の平野では、複数の集団が分割占居するのに応じ、小流路の利用と結びついて森林・原野や湿原の中に島状に水田が分散していたと思われる。
 このようにして新しい土地を開発していった弥生期は、本格的に自然改造を行っていくその後の歴史のはじまりであった。


縄文晩期から弥生前期にかけて、集落の営まれる低い台地の西側に拓かれていた水田が東側や南側の氾濫原にも拡大していった。それとともに、集落も拡大した。


田面に残る古代人の足跡
(板付遺跡・福岡市教育委員会)



菜畑遣跡の水路と井堰
わが国最古とされる佐県唐津市の菜畑でも、縄文晩期に、水田に水を取り入れる仕掛がつくられていた。


百聞川の水田遺跡 弥生前期~後期(岡山県古代占備文化財センター)
(上)畦畔で区画された水田(原尾島遺跡)(下左)弥生前期の沢田遺跡(下右)砂に埋もれた稲株の痕跡は田植の様子をうかがわせる(原尾島遺跡)


日本とスマトラの小区画水田
群馬県高崎市の御布呂遺跡から発見された古墳期の水田(左〕は、1区画3-5㎡で、インドネシアのスマトラ島に見られるルパックと呼ばれる小区画水田(右〕とよく似ている。少ない水を効率的に田面にゆきわたらせる工夫である。(御布呂遺跡・高崎市教育委員会)


火山灰におおわれた二層の水田
御布呂遺跡では、3~4世紀に営まれた不整形の水田が浅間山の火山灰で埋没。その上に6世紀初頭の整然とした小区画がつくられたが、それもまた榛名山の噴火で埋もれた。


本州最北端の水田遺跡
青森県田舎館村垂柳遺跡。弥生中期のもので、従来の定説よりずっと早く稲作が北進したことを証明した。(青森県田舎館村民俗資料館)