明治農法の受皿、田区改正

 明治期には、水田耕作において、それまでとは異なる高い生産力が実現した。年貢の廃止や土地売買の自由化など、封建的な制約からの解放とともに、「明治農法」という新農法の普及がそのキーポイントであった。
 明治農法の中心は、乾田馬耕である。耕地の整備と結びついて農具(犂耕)が発達し、それを契機に新しい農法が確立したことは、肥料や作物の改良が中心のわが国農業史のうえで注目に値する。すでに近世には、牛馬耕用の犂が西日本を中心に普及していた。それは長床犂といい、長大な犂床で安定よく操作も容易である反面、小まわりがきかないため、不整形で狭小な水田区画には不利であったし、深耕に適さず耕土を深くして増収を図ることもむつかしかった。
 また、明治前半期までには北九州で抱持立犂という無床犂が広く使用されていたがこれは深耕には適するが安定性に乏しく、操作に熟練を要するものであった。これらの難点を克服したのが短床犂であり、長床翠と無床牽の長所を兼ね備え、各地で改良されながら完成していった。この犂で深耕が可能となり、そこへ多量の肥料を施用して、多収を実現したのである。


短床犁(上)と長床犁(下)


短床犁の完成者・高北新治郎
(三重県名張市(株)クカキタ構内)



乾田馬耕
秋田県雄和町(『写真集 雄和に生きる』より)


 乾田で畜力を使って深耕で生産性の向上を目指す新農法を受け入れるには、その基盤としての耕地整備が何よりの前提であった。明治20年代にまず行われたのが田区改正で、耕地の整形・交換を行うと同時に暗渠により排水改良を行った。水田作業を容易にするための形状整形は、江戸期から実施されていたが、静岡県で明治5(1872)年と8年、遠海報徳社の名倉太郎馬らが畦畔や道路を直線化したのが近代的な田区改正の発端である。さらに明治20年、鈴木浦八が同県富岡村で43haの整理を行った。この方式「静岡式」は、一辺約60間(約108m)の道路・水路で画された正方形の大区画の中に、6間×12間~15間(2.4~3畝)の区画が50枚程度あるというものである。
 一方、西欧の土地整理を模範とし、政府の奨励により進められたのが、「石川式」田区改正である。これは、区画が6~8畝程度と広く、道路・水路がすべての区画に面しているため、用排水管理にも適している。石川式は、石川県の高田久兵衛らが自らの耕地をモデルケースとしたのを端緒としている。
 こうした田区改正は、近代的営農への第1歩ともいうべき耕地の整備である。そして、明治32年に法制化される耕地整理へ発展していく。この基盤の上に、明治農法が花開くのである。



静岡式(静岡県磐田市)


石川式(石川県美川町・松任市付近)