干潟から沃野へ、有明海干拓

 有明海は、約1,700㎞2の広大な浅海で、この内海に注ぐ嘉瀬川・六角川・筑後川・矢部川などの河川が風化した花こう岩や玄武岩などの土砂や火山灰を大量に運搬してくる。この微細な粒子は遊泥としてはるか沖合におよぶが、わが国最大といわれる干満の差(平均約5m)により再び運搬されて堆積し、干潮時には海岸線から5~7kmの沖合にまで干潟となって露出する。この自然界の旺盛な造陸運動により、海岸では堤防の前面にヘドロが年々堆積し、やがて満朝時にも水没しないようになる。干潟の上昇速度は、年平均10㎝近くにもおよぶところがある。
 有明海では「50年に1干拓」といわれ、干潟の成長とともに干拓が進んだが、そこには宿命的ともいえる原因があった。干潟が成長すると、干潟の奥にある旧干拓地は吐口がなくなり、排水が困難になる。干潟の成長につれてその程度はますますひどくなり、内陸の古い干拓地が湿田化するなど影響が大きくなっていく。また旧干拓地では、地盤沈下が生じやすく、排水条件の悪化と地盤沈下が重なって、旧干拓地の排水不良はいよいよ深刻になる。そのため、干潟を干拓し、陸地化して旧干拓地とあわせて一体的に排水路や耕地の整備をすることによって状況を打開せざるを得なくなるのである。
 有明海の干拓は、推古帝のころがはじまりと伝えられているが、本格的に進んだのは近世以降である。一般の新田開発と同様各藩の財政確立政策の一環として耕地の拡大が図られたのである。佐賀藩は村受新田が主であったが、柳川藩では商人資本によるものも多く、肥後藩は藩営や藩士受で大規模に行われた。政策のちがいによる規模、干拓年代や、干潟の発達度合いによる堤防の構造に、様々なものがみられる。


福岡県柳川市南部の干拓地
新しい干拓地が魚のうろこのように次々とつくられていったようすがよくわかる。干拓地には、独特の地名もみられ、集落は一期前の旧潮受堤防上に立地することが多い。


 干拓地には籠・搦・開・新開など独特の地名がつけられ、堤防に囲まれたひとまとまりの水田が魚鱗のように並んで次々と海に向かって付け足されたように進んでいく有様が、地図上にはっきり見える。一期前に海に面していた旧潮受堤防上に、屋敷が列状に並ぶことが多い。大規模な遺構として佐賀平野に延々30数kmにおよぶ松土居があり、近世初期の築造になるものとされている。その名は、堤防盛土の補強のため、松を植えていたことに由来する。こうした歩みが、現在の平野を形成し、穀倉地帯としての基盤ができた。明治期以降も、地主の資本投下、国営・県営事業として干拓は続けられ、昭和61(1986)年に着工した諌早湾干拓事業に至っている。


有明海の干拓の進展 工事現場の視察風景



有明海の潮位と干拓地の高さ
大部分が大潮平均潮位と同程度の標高であり、干拓地は技術の進歩と背後地の拡大を反映して、漸高する堤防に守られ、絶えず前進する。


有明海の干拓の進展
干拓起工当時の測量風景
国営有明干拓事業は、昭和8(1933)年に着工し、昭和53年に完工した。干潟はぬかるむため、視察に測量に、「ガタスキー」とよばれる移動具が活躍した、写真のような木のたらいの底に板を付け、片膝を板の上に乗せ、もう片方の足で泥をけって進む。ガタスキーは、今でもムツゴロウ漁などに使われている。


有明海の干拓の進展 
五千間土居とくど造り農家