開発の花ひらく、荘園

 条里制施行時の開発と、幕藩体制下の新田開発とにはさまれた中世に、「大開墾時代」とよばれるほどの開発が行われ、平安期後半から鎌倉初期にそのピークを迎えたことが、近年明らかになってきている。
 律令制下の私有地制と耕地の不足から政府が進めた開墾奨励に端を発した荘園制度は、8世紀から16世紀まで900年もの間存続した。幾重にも収益権が錯綜し、複雑化していったことにみられるように、一貫した制度のもとにあったわけではないが、その間、土地=墾田とその開発行為を基軸として、荘園は続いていたのであった。
 平安期ごろには、条里地割の行われた地域内の水田といえども荒地のままであったり畑になっている土地も多く、作付率が低いところや、作付してもほとんど収穫のない損田が相当量にのぼった。また、当時の開発技術では、微地形や用水の制約も大きく、そのような土地利用を余儀なく生じさせていたのであった。
 中世の開発は、不安定な土地利用を克服し、耕作を安定化する形で進められた。荘園領主は、浪人を用い、荘民の荒地の所有権(古作)を認めず、在地領主をも排して一円支配へ向かった。地頭などの在地領主は、居館を根拠に隷属民を増やしつつ佃・門田とよばれる直営地を拡張した。荘民は、古作所有権を主張し、年貢をのがれやすい畑や谷地田を拡大した。また、耕地の拡張も進められたが、そのなかでは東大寺が北陸道において行った大々的な開発や、各地の「塩堤」の築堤による干拓などが代表的である。
 この時期の開発を、初期の準国家的な地域開発事業ともいえる東大寺墾田の例でみると、まず用排水溝が築造され、それから条里地割を伴って開田は進んだが、緩傾斜の扇状地で表土の厚い部分とか自然堤防帯周辺の後背湿地といった土地が選択され・100ha前後の規模のものが多くみられた。開発は、畿内やその周辺では、前代までの開発で残された土地、越前や尾張などでは平野の比較的良好な部分、越中などでは大扇状地の扇端・扇側部など最も好条件の部分というように、当時の開発の進行度合いと技術レベルに応じて対象地は拡大していった。
 こうした過程を経て、鎌倉期には全国に荘園が分布した。その4分の1は畿内に集中しているが、小規模なものは内陸の山間部にまでおよぶ。東国など辺境へ至るにつれ、何百町歩もの荘園が毎岸部など領主の周辺にまばらに分布する。後の太閤検地で完全に崩壊するまで続く荘園体制の様相は、このようなものであった。


中世の不安定耕地
鎌倉後期の絵巻に描かれた休耕田は、「かたあらし」とも呼ばれ、水掛かりや労働力などの制約によって生まれざるを得ないものであった。(歓喜光寺蔵『一遍聖絵』より)


安曇野(信濃)中央部の集落の開発
安曇野は、長野県松本盆地の北西部にあり、梓川黒沢川などの河川が形成した複合扇状地である。中世の荘園の開発は、河川に井堰を設け、用水を引いて活発に行われた。こうした河川かんがいによって、肥沃な耕土の厚い個所から拓かれていった。この傾向は、砺波平野(富山県)の複合扇状地などにおいても同様である。




福井平野における東大寺領荘園の立地
福井平野に位置する東大寺領の各荘園は、扇状地の扇端部以下に広がる白然堤防帯に立地することが多い。この部分は、微高地(自然堤防)と低湿地(後背湿地)が交錯し、耕地は水田として条件の良い後背湿地を中心に開墾された。開発が早くから進んだ近江国などでは、同様の条件の土地はすでに一時代前に耕地化していた。


尾張国富田荘絵図
尾張国円覚寺領富田荘は、現在の名古屋市中川区富田町付近にあった。嘉暦2(1327)年作成とされる絵図には、方格地割がみられるが、これは古代の荒廃水田が再開発されたときのものであろうとされている。自然堤防上に集落を立地させて分流する庄内川など三つの河川は、洪水で荒廃をもたらすとともに、旺盛な堆積作用で干拓による農地開発を可能にした。絵図の南側には干潟らしいようすが描かれている。(円覚寺蔵)