平野の拡張、新田開発

 新田開発は、近世における大規模な地域開発である、多くは耕地とともに集落が形成され、これらがセットになって列村や散村のような独特の景観がつくり出された。
 新田開発が進められたのは、幕藩体制の制度的整備が確立する明暦~寛文期(1660年ごろ)、幕府財政の再建を図り改革の行われた享保期(1720年ごろ)、深刻化する幕藩体制の危機に直面し改革の行われた幕末に近い天保~安政期(1840年ごろ)の3期をピークとしている。いずれも、体制の確立や強化を背景にした開発奨励や農業振興によっている。
 このころまでにすでに開かれていたのは、比較的水を制御しやすい場所、すなわち山麓の小さな谷間を堰き止めた溜池や小河川に掛けた井堰から水を引きやすく、しかも洪水などの被害の少ない山麓の平坦地や中小河川中流域の扇状地・河岸段丘などが多かった。
 近世の新田開発では、こうした技術の限界を突破して、中世までに耕地化が困難であったところへと開発が展開していった。水量の多い本流を堰き止める井堰や、下流三角州の乱流を制御し河道を固定するための堤防、さらには三角州前面の干潟を干拓するための堤防と排水などの技術が確立したことがその前提となったのである。



 新田開発は、東日本では、山林原野の開墾と河川流域に分布する湖沼・低湿地の干拓といった内陸部の開発を主としていた。西日本においては、干潟の干拓、すなわち海岸部の開発が主として行われた。もはや陸域にほとんど適当な未墾地が残されておらず、必然的に陸地に続く浅海域を対象としたのであった。しかも西日本では開発のピークは比較的初期にあり、江戸中期には限界に近づいていたのに対し、東日本では幕末期に最隆盛期を迎えるという時期的な差もあった。これは比較的長大な河川とその流域の広い平野が近世に至るまで未墾地として残されざるを得なかった、自然的かつ歴史的な条件の差であった。
 開発には莫大な資力を必要とするが、村受新田・藩士知行新田・藩営新田・町人請負新田など開発主体によって分類されるように、資本と労働力の調達を可能とした者らが一定の範囲を対象に開発を行った。ここに、同時期の棚田の形成過程などにはみられない、計画的な意志がはたらいているといえよう。