地域総合開発の引金、山田堰

 近世初頭は、全国的に幕藩領主の領国経営の重要な施策として、新田開発が進められた。
 四国の土佐では、長宗我部氏にかわって遠州掛川より山内一豊が24万石の領主として入国し、大高坂山に城を築き、土佐藩政が成立した。建藩当時、土佐藩では米不足に苦しみ、九州から米を購入したり、幕府から拝領米を重ねた記録が、当時の文献に残っている。この米不足を解消し、殖産政策の一環として新田開発を進め、土佑藩の財政基盤の強化を図った中心人物が、家老職執政の野中兼山である。
 兼山は、物部川に山田堰・野市堰を築いて鏡野・野市新田を拓いた。また、仁淀川下流にも鎌田堰・八田堰を築いて平野をかんがいした。開田に用いた長宗我部氏の遺臣を郷士とし、生活の安定と懐柔をはかった。土佐藩の初期の石高は24万8千石余であるがその後80年間で8万石余の増加を示す。このうち7万石余が兼山の業績といわれる。兼山の築いた堰のうちでも有名な山田堰に、新田開発政策における水の役割をみてみよう。



 山田堰は物部川の山間部から平野部への出口付近に設けられその工事は寛永16(1639)年から寛文4(1664)年まで、関係水路を含めて完成までじつに26年もの年月を要した。堰本体は、洪水の水圧を小さく、流れを取水口に導きやすい湾曲斜め堰を、丸太組みの四つ枠工法で設けている。ここから物部川東岸に父養寺井、西岸に上井・中井・舟入の3水路を設け、これにより物部川両岸一帯の台地の開田と沖積低地の用水整備が可能となった。

 これらの用水路によって開発された水田は、「堰下3万石」ともいわれた。それだけでなく、舟入川水路は、下流の大津川と連絡されることにより、新しい水上交通路となり、山間部と城下を結ぶ物資交流のうえで大きな意義をもった。台地上には郷士屋敷が散村状に分布するが、水路を核として新たに後免・土佐山田など在郷町も建設された。商人らの誘致に際し、諸役を免除したところから「御(後)免」の名がある。
 こうした、単なるかんがいを超えて産業振興など多面的な役割をもつ農業用水が当時の地域総合開発の中心にあった。