地形に応じた地割、条理制

 条里制は、土地の区画を規則的に編成し、1町(約109m)方格の坪を座標表示するシステムである。坪は道路および水路に接し、圃場機能を十分備え得るように考えられている。古代・中世の開発は条里制とともに進行し、条里の形態から当時の開発状況を知ることができる。
 条里地割は、大和・山城などの先進地域では、多少の地形上の制約を克服して東西~南北の正方位に連続的に地域をおおっている。条里地割はここを核心として北陸・東海・畿内周縁部から瀬戸内地域を経て九州北部へと広がるが、周辺地域ではその広がりもやや連続性を失い、方向も正方位よりずれている。近江盆地のように条里の座標の軸が琵琶湖に向かった主傾斜とその直交方向に向くのはその典型である。西日本では、河川下流域の沖積平野ですでにかなりの範囲にわたって利用されていた土地を、再編成する形で施行された、東日本では、おもに河川中流域の扇状地性盆地に施行され、大化前代から開発されていたと思われる低湿地帯では律令制成立以降も既存耕地の再編が進まず、すでに施行されていた古い地割のまま残されたところもある。
 当時の開発においては、三角州・扇状地といった大スケールの地形以上に微地形が重要な影響を与えた。たとえば、濃尾平野に分布する条里地割は、自然堤防に取り囲まれた後背湿地といった地形のまとまりごとに施行されているため、条里地割の施行単位ごとに区画線が互いに食いちがっている。各地形単位はまた、水利の面でのまとまりともなる。このまとまりは100町歩(約120ha)前後の規模をもっており、土工やかんがいの技術的制約ともあいまって、開発の単位となると考えられている。
 大和・山城などでは盆地全域に統一的に地割が施行されているが、この地域でも周縁部には方向の食いちがう古い地割が谷筋や水利のまとまりにそって形成されたまま、後に全域に敷かれた条里地割にも再編成されずに残っている。山間の小河谷や盆地では特に制約は大きく、地形単位ごとに完結するのである。また、当時克服できない地形条件、たとえば比較的大きな河川の流路や傾斜方向などにより、部分的に区画の計画が変更されざるを得ない場合もあった。
 条里制はこのように進行したが、平野部のすべてにわたって展開したとみられる9世紀ごろをピークとして、その後、洪水の氾濫や火山の噴出など急激な変化を受けたところや、大河川流域のように地形の変化の激しいところでは、定着せずに消滅した。近年まで地割が遺構として残っている地域は、安定した地形面上にあり、しかも条里でつくられた骨格が地域の農業経営に適合していたため維持されてきたのであろう。


奈良盆地の条里遺構の空撮と地形図
(地形図は国土地理院2万5000分の1「大和郡山」)


讃岐国善通寺近傍絵図
善通寺伽藍と周囲の条里の地割が描かれ、2箇所の湧水と図右上の池から用水が引かれている。
(徳治2=1307年作成、善通寺蔵)


愛知県岩倉市付近の青木川・五条川が形成した自然堤防帯には、本川沿いをさけ、やや低い自然堤防から後背湿地部にかけて条里地割が分布する。しかしそれらは断続的で、ひとまとまりごとに若干の食いちがいがみられ、施工の単位をうかがわせる。