新田と機械化農村、児島湾干拓地

 西日本の大きな沖積平野は、河川が湾を埋め立てて干潟を形成し、その前進によって発達した平野である。瀬戸内海沿岸には、近世以後干拓の前進によって新田開発を進めたところが多い。こうした干拓地は、平坦で広がりが大きいため、用排水路などの基幹施設が整備されるにしたがい、大規模で高い生産力をもつ稲作地帯となった。広島市の太田川河口三角州や山口県の開作とよばれる多くの干拓地のほか、典型的な発展をとげたところに岡山県の児島湾がある。
 児島湾では、寛文期(1661~72年)を中心に次々と行われた池田藩営の新田開発をはじめ、諸領の政策により急ピッチで干拓が進められ、約6,800町歩(約6,800ha)もの土地が、児島を半島化するまで「吉備の中海」に造成された。明治以降には、廃藩置県に伴い家禄を奉還した旧藩士の士族授産事業として着手された。その後、県令高崎五六は統一計画による全面干拓を構想し、内務省御雇工師ムルドルの意見を求めつつ官営事業として計画したが果たさず、民間資本による実施に方針を変更した。実業家、藤田伝三郎が単独で事業を行い、明治32(1899)年に着工し、戦後まで続いた。そのうち1,758町歩は明治年間に完成し、藤田農場として経営された。
 藤田農場は小作制と会社直営の農場で、当初はムルドルの意見どおり畑作を指向したが良好な成績が得られず、全面的に水田稲作に切り替えた。しかし、用水は上流の余水に頼るしかなく、早魅にくり返し見舞われた。このため藤田農場は、上流水田地帯の用水の余水導水が可能な水利契約を結び、また貯水池を設けて用水の貯留に努めたが、厳しい用水不足は戦後の児島湾淡水湖による水源の完成まで続いた。


昭和30年代の児島湾干拓地


 藤田農場は、農場内のかんがい・排水のため揚水ポンプなど大規模な機械施設を設置し、脱穀調整のためにも各種の機械を試用したが小作農の余剰労働力を低賃金で雇用したため、あまり機械化は進まなかった。
 これに対し、近世終末に干拓された興除村は、戦前の機械化農業の最先端となった。大正時代に「大車」という畜力原動機を揚水機などに導入したのに続き、大正13(1924)年の大干害以降に普及した石油発動機が作業工程を次々と機械化していった。特に耕転機は、昭和14(1939)年時点で全国の15%、423台が集中するという普及ぶりであった。興除村では、小作料軽減が激しく争われ、それを実現した上層農が「作株」という慣行耕作権をテコに、細分化された耕地を区画整理によって団地化し、疎居式集団農場を形成した。この基盤上に、機械化農村が実現したのであった。




藤田伝三郎(1841~1912) 長州(山ロ県)萩出身の実業家。明治14(1881)年藤田組を組織、26年合名会社に改組、以後、鉱山業・農林業、児島湾の干拓を中心に関西財界で名をなした。




石油発動機による揚水ポンプ(大正期)


昭和初期に児島湾干拓地に導入されたトラクター