古代国家の開発の枠組み

 わが国で最初に広い範囲を対象に計画的に行われた地域的な開発は、条里制の施行である。1町(約109m)方格の規則的な耕地の景観は、強大な権力のもとで統一的・計画的に多量の労働力を使って行われた大工事をうかがわせる。奈良盆地のように、全域に統一された区画が展開するのは、巨大古墳にも匹敵する壮観である。
 条里地割は、道路・水路の方向や溜池の形態、さらには村落・都市計画まで、その後の土地利用を強く規制し続けた。条里地割が一定の地域全体の平面プランを規定し、条里の基本区画を兼ねるいくつかの重要な街道が、後になって成立した都城の大枠を決定したり、国府域を画す例が各地で見られる。後の新田村落のような計画的な村落が、条里制の成立とともに設定されたともされている。また、郡や里といった古代の地方行政区画もこの地割と無関係ではなく、直線的な国・郡などの境界が条里地割によって設定されているところも多い。

条里制地割の分布


 このように条里地割は、単なる耕地の区画にとどまらず、地域を形成するハード・ソフト両面の諸事物と密接な関連をもち、律令国家の実施する地域計画を組織的に行う枠組としての機能を果たしたのである。それゆえ、近代以降もなお、京都などの都市や各地の耕地にその刻印をとどめてきた。
 条里地割は、6町四方の大区画(条および里)の中に、縦・横六つずつ60間=1町四方の正方形の基本小区画(坪)を画すと同時に、坪に番号を付けて統一的に土地を表示する呼称法(坪並)の単位でもあった。  区画と坪並の両者一体としての条里制は、班田収授が制度として定められたときではなく、それが崩れかけた8世紀中ごろに完成したとされている。「三世一身法」(723年)、「墾田永年私財法」(743年)が私領の増加をまねき、坪および坪並は、私領と口分田の区別・記録などの行政上の機能を果たした。班田制の崩壊後も、坪は土地関係の記録や負担・権益の範囲を表示する重要な機能を担い、この機能が強く認識されていたため、坪の区画は維持され、ときには補強されていったのであろう。洪水で埋没した地割の上層に、再構築された例もある。このように、条里制は一挙に成立したのではなく、地割と条里呼称法のそれぞれの機能を生かしながら、古代から中世にかけて展開した。
 条里地割は、北は秋田周辺から南は大隅半島に至るまで全国に広範に分布している。各地の地形や開発努力の条件の差、年代などによって、施行範囲や方向に変化がみられるが、条里施行地域では、条里地割を導き手として開発が進められたのである。


国府の都市域は8町四方、政庁としての国庁域は2町四方であり、周辺の条里区画の上にぴたりと収まっている。


近世の藩政村の名残をとどめる大字の境界が、6町単位の里レベル、1町単位の坪レベルの区画線と一致して直線となっているものが多い。東海道も東山道も条里の区画線上を通っていたと推定される。




奈良盆地の条里遣構 天理市
(国土地理院空中写真)


条里遺構と埋没条里(長野県更埴市)
長野県更埴市では、仁和4(888)年の千曲川の氾濫によって埋没した条里が地下40~100㎝から発掘され、前代の条里地割をほぼ踏襲して坪の区画が再構築されたことがわかった。