水を取る、井堰

 水は、水田に欠くことはできない。現代でも、谷に開けた水田では天水(雨水)だけに頼るものがあるが、一搬に谷筋の水田では、背後の山林からの湧水や、それが集まった流路から水を取る工夫がこらされている。湧水地点に設けた野井戸や、渇水期には砂の中を伏流する水を石積みの暗渠で取り出す施設がよく見かけられる。このような小さな水源からの取水は不安定で、すぐに水量の限界に達する。そのため、集水域の広い、河川とよべるような流れから取水することになる。
 河川の水量が豊富で水位が常に高ければ、単なる水の入り口を設けるだけで容易に取水できるが、水位が低下して水が引けないような場所や時期には、流れの中に水を堰き止める物を置いて、水位を高める必要が出てくる。水位を高めることができればあとは個々の圃場に至るまで水路をつくって、重力エネルギーで勾配に従って自然に流下させることができる。
 わが国の農業用水は、大部分を河川から取水しているが、自然の水位を人為的に上昇させ、かんがいに適度な水位を保つ井堰の出現は、人々が必要とする時に水をいつでも利用することを可能にした画期的な意義をもっている。現代に生き続ける有名無名の用水は、先人の着想したこのような原理を最大限に活かしたものである。

 井堰の最初は、付近の木や石で川を堰き止めたものなどこわれ易いつくりだったので、流量の小さい渓流や小支流にしかつくることができなかった。しかし水田が増えて必要な用水量が増加すると、堰上げ期間も長くなり、堰を設ける河川の規模も大きくならざるを得なくなる。簡単な堰を築いては洪水のたびに流失や埋没のために再建する、そんな過程を数限りなく長年にわたってくり返したのち、各地に大きな河川を堰き止める大規模で堅固かつ恒久的な井堰が出現した。技術の進歩した近世以降のことである。
 もっとも、縄文期の水田といわれる板付遺跡(福岡県)でも木杭を打ち込んだ直立型の簡単なものが、古墳期はじめごろの古照(愛媛県)や纏向(奈良県)などの遺跡では木杭を合掌式に組み合わせたものが発見されている。こうした先進地域以外でも、しだいに井堰を設けることの重要性は高まり、人工の用水路を組み合わせることにより、新しい耕地を拡大できるようになった。
 それとともに、河川を利用できる度合いが増し、また個々に独立していた小規模な水利集団が統合されて、一つの井堰を頂点に広範なつながりをもつ大きな用水組織へと発展していくのである。


古照遣跡
杭を斜めに打ち込んで丸太をこの列上に置いたのち、丸太を固定するために再び杭を斜めや垂直に打ち込む。こうした作業をくり返すことによって合掌形式としている。木組みのいくつかの個所はフジづるでしばり、すき間には粘土や礫などをつめ、草などの編物で押さえて堰き止め、水位を上昇させる機能を高めている。上はその断面図である。
(松山市教育委員会)



山田堰古図
九州一の大河、筑後川に江戸初期に設けられた石積の堰。取水ロに鎮座する神社から、巨石を敷き並べた偉容の面影がしのばれる。ここから導かれた用水路には二連・三連の水車が設置されている。(福岡県朝倉町)



草堰
下流との申し合わせにより、恒久的な堰がつくれない所では、杭を打ち、その間にカヤを編みこんだ簡単な堰が今でも使われている。(佐賀県千代田町)


戦後間もない頭首工 徳島県那賀川。