新田村落の典型、武蔵野

 武蔵野台地(東京都・埼玉県)は、規則正しい列村が発達していることで有名である。同じ台地でありながら東部の谷筋には散居が台地周辺や丘陵の麓などには塊状の集落があるのに対し、列村は台地面上に分布する。こうした列村は、江戸期の新田開発によって成立した集落である。

 新天地に向かわざるをえない耕地の拡張は、それまで放棄されていた洪積台地にもおよんだ。武蔵野台地は、上部が厚い関東ローム(火山灰)におおわれ、その下部にも厚い砂礫層があって、地下水が浸透するため、水に恵まれず、周縁部以外は長い間、無住地として開発されずにいた。近世になってはじめて耕地拡張の必要にせまられて台地面上が開発された。開発のためには、水、特に飲用水の確保が何よりも必要で用水の整備に伴って発展した。水源は、台地南部に展開する玉川上水・野火止用水(承応2=1653年開削)とその諸分水、それに北部に享保期以降開かれた深井戸であった。


まいまいず井戸
水の乏しい武蔵野では、らせん状に掘り込んで共同井戸を掘った。らせん階段がカタツムリに似ているので、まいまいず井戸と呼ばれる。(東京都羽村町)



地下水位が深い洪積台地で自然発生した村(古村)は、山麓の谷口や河川沿いに連なり、
その後の新田開発により台地面上が拓かれた。


 この台地上に成立した新田集落は、道路にそって列状に並ぶ屋敷と、その背後に細長い短冊状の畑地と林地を備えた独特の形態をもつ。この形態は、北ドイツの林地村落とよばれるものと同じく、開拓集落の特徴をよく表す。すなわち、自然発生的な旧村では生産や生活のために必要な土地が一定の秩序で並ぶのに対し、新開の村ではこの秩序を立村時に計画的につくる必要がある。この結果、各戸の屋敷の近くに自ら耕作する畑地を配し、その先端に平地林を配置して、家畜の飼料、草肥・堆肥など地力維持資材とともに燃料など生活資材の供給源としたのであった。こうした平地林は、集落界に位置するため独立しているようにみえるが、屋敷―畑地―平地林が一連の構成要素として結びついた合理的な土地利用構造を形成している。
 畑地では麦やアワ・ヒエなど雑穀と蔬菜が栽培されたが、多くの場合、各新田では開発当初、入植者に畑地をほぼ一定して与え、土地配分の均衡化を図った。面積だけでなく畑地の良し悪しにも配慮しており、平等な自給自足的農家を創出する政策であったことが知られる。1戸当たりの畑地面積は、全体としてみると1町歩(約1ha)内外であるが、川越藩領の三富新田のように5町歩ほど配分されたところもある。

 台地南部は街道にそって掘られた用水路の方向に、北部は水源が井戸のため比較的自由な方向に、列村が形成されている。水に恵まれない台地であるがゆえの水源の重要性と、土地の合理的配置に表現された計画的な開発の意志が、こうした列村の形態をとらせたのであった。


空から見た武蔵野の新田集落景観(三富新田)



武蔵野台地に多摩川の水を引いて台地面をうるおした玉川上水